豊後大野市は九州の東部、大分県の南部に位置し、面積は約603平方キロメートルと大分県で3番目に広い市となっています。市の中央を九州屈指の河川である大野川が流れ、周囲をくじゅう連山、阿蘇山、祖母・傾山系等の山々に囲まれた緑豊かな地域です。
今からおよそ9万年前、阿蘇火山が4回目の巨大噴火を起こしました。その規模は想像を絶するもので、噴火によって生じた巨大な火砕流は、豊後大野の大半の地域を埋め尽くしました。火砕流とは高温の軽石や火山灰などが高速で流れ下る現象です。数十メートルもの厚さでたまった火砕流は自らの熱で溶け、その後冷え固まって溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)と呼ばれる岩石となりました。その際に体積が収縮し、柱状節理(ちゅうじょうせつり)と呼ばれる縦に長い無数のひび割れがはいりました。おおいた豊後大野ジオパークでは、このような溶結凝灰岩の柱状節理がいたる所で見られます。
火砕流に埋め尽くされた大地には、再び川が流れ、川は徐々に大地を削り込んでいきました。柱状節理がはいった溶結凝灰岩は縦に長く割れるため、川には滝ができました。谷の両側は垂直な断崖となり、そこには溶結凝灰岩を利用して多くのアーチ式石橋が架けられました。また溶結凝灰岩の崖のうち、比較的柔らかい部分には磨崖仏が彫られました。さらに、川に削り残された部分は「原(はる)」と呼ばれる台地となり、農耕の場となりました。このように、阿蘇火砕流によってもたらされたさまざまな恩恵と困難が、現在の豊後大野の文化を育んできたのです。
豊後大野の大地は、今からおよそ9万年前に起きた阿蘇火山の巨大噴火による火砕流に埋め尽くされました。やがて水が流れ、命が生まれ、豊かな大地がよみがえりました。水と大地は命あるすべての源であり、そこで古くから営まれてきた「生活=いのちき*」とともに支え合い、繋がっています。 そのことを「彩り」という言葉で表現しました。
(*生業、生活を意味する大分方言)
大野川の支流、緒方川にかかる滝で、幅は約120m、高さは約20mあります。約9万年前の阿蘇火山の巨大噴火による火砕流が冷えて固まった溶結凝灰岩の柱状節理が崩落してできました。滝の上流にある鳥居は、緒方三社のうちの二宮社の鳥居で、毎年初冬に行われる「川越しまつり」の際に神輿がこの鳥居をくぐります。また、上流には緒方盆地を潤す緒方井路(用水路)の取水口があります。
滞迫峡は奥岳川沿いの峡谷で、約9万年前の阿蘇火砕流が冷えて固まった溶結凝灰岩の絶壁で囲まれています。崖の高さは70mにおよび、見事な柱状節理が見られます。また、谷底にはおよそ1,500万年前の火山活動でできた岩石が露出し、少し上流には火砕流で蒸し焼きになった炭化木が埋もれた洞窟もあります。
轟橋は昭和9(1934)年に森林鉄道の橋として架けられた2連のアーチ式石橋で、広いほうの径間(アーチの幅)が32.1mと日本一を誇ります。一方、出会橋は大正13(1924)年に架けられ、径間が29.3mと日本第二位です。下を流れる奥嶽川の両岸には、阿蘇火山の巨大噴火による火砕流が冷えて固まった溶結凝灰岩の柱状節理が見られます。
沈堕の滝は、大野川の本流にかかる雄滝と、支流の平井川にかかる雌滝からなります。雄滝は幅約100m、高さは約20mあります。原尻の滝と同様、約9万年前の阿蘇火砕流が冷えて固まった溶結凝灰岩の柱状節理が崩落してできました。室町時代に雪舟がここを訪れ、「鎮田瀑図」を描いたことでも有名です。また、明治42(1909)年に大分~別府間の路面電車を走らせるために建てられた発電所の跡も残されています。その後、発電量増強のために水量が減少していましたが、平成8(1996)年に滝の補強を兼ねた修景工事が行われ、往時の流れがよみがえりました。
白山渓谷は日本名水百選に選ばれた清流で、夏はホタルが乱舞することでも知られています。川沿いには阿蘇火砕流の柱状節理が見られ、変化にとんだ景観となっています。渓谷には轟木橋やほげ岩橋など、多くのアーチ式石橋が架けられています。また、阿蘇火砕流に出口をふさがれたことによって水没したとされる稲積水中鍾乳洞があります。
磨崖仏とは崖に直接彫られた仏像のことです。菅尾磨崖仏は平安時代後期に作られた磨崖仏で、約9万年前の阿蘇火砕流の溶結凝灰岩に彫られています。向かって左から千手観音菩薩、薬師如来、阿弥陀如来、十一面観音菩薩の各坐像と、右端に毘沙門天立像が彫られており、京都や奈良の木造の仏像と比べても遜色のない、非常に精緻な作りとなっています。国の重要文化財に指定されており、豊後大野の数多くの磨崖仏の中でも代表的なものです。
手取蟹戸は大野川の急流で、約1億年前に海底で堆積した大野川層群という地層が露出しています。地層は地殻変動で大きく傾き、戸板を立てたように見えます。江戸時代に岡藩により編纂された「豊後国志」にも「巨石無数にして龍が臥せ、虎が伏しているが如し」と書かれています。手取蟹戸の名前の由来については、流れが急で、蟹も流されないように岩の上を歩くため、その蟹を手で取ることができたことから名づけられたと言われています。
犬飼港は、江戸時代の初めごろに造られた川港です。当時、大野川の上流に領地のあった岡藩は、下流の三重町付近が臼杵藩の領地であったため、この犬飼までは陸路を移動し、ここから船で大分方面に向かっていました。河床には大野川層群と呼ばれる約1億年前に海底に堆積した硬く切り立った地層が露出しており、これを平らにするために阿蘇火砕流の溶結凝灰岩を切り石にして敷き詰めています。
普光寺の境内に彫られた磨崖仏は、高さが8mとも11mとも言われ、国東半島の熊野磨崖仏とともに日本最大級の磨崖仏です。豊後大野の多くの磨崖仏が約9万年前の阿蘇火山の4回目の火砕流に彫られているのに対し、この磨崖仏は約12万年前の3回目の火砕流に彫られています。磨崖仏に向かって右側には2つの大きな岩窟があり、懸崖造りの舞台や護摩堂が建てられています。
ジオパーク名:おおいた豊後大野ジオパーク
ジオパーク名(英語表記):Oita Bungoono Geopark
団体名:おおいた豊後大野ジオパーク推進協議会
構成自治体名:大分県豊後大野市
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