気候変動の中を生き延びた生き物たち
温暖な時期と寒冷な時期を繰り返してきた地球ですが、これは生き物たちにとっては大きな試練でした。
現在の日本列島でも、生き物は大まかには気候によって棲み分けをしています。例えば、標高の高い山の上や北海道では寒冷な気候に適応した植物が、標高の低いところや沖縄などでは温暖な気候に適応した植物が棲んでいます。
気候帯が多様な日本列島は、地球全体で見ても植物種の豊富なところです。植物(高等植物)の種数を比較すると、イギリス諸島全体に生育する種数が約 1,500種なのに対し、日本では、東京都民がハイキングに訪れる高尾山だけで約1,200種に上ります。
これは、ヨーロッパでは寒冷な時代(氷期)に氷床に覆われて多くの動植物が絶滅したのに対し、日本列島では海水準の低下によって大陸とつながり、逃げ場所(レフュージア)ができたためです。
江戸時代に日本を訪れたシーボルトがイチョウのことを「生きている化石」と表現したのは有名な話ですが、これは、ヨーロッパでは既にイチョウが絶滅していて、化石でしか見たことがなかったからです。
島根県の隠岐諸島に生育するスギも、こうしたレフュージアの1つと考えられています。
ヒトがつくり上げた“自然”
動植物の生き死にを左右してきたのは、気候変動だけではありません。ヒトもまたその1つです。
人類による自然破壊は産業革命以降激しくなり、地球温暖化や生物多様性の低下など様々な問題を引き起こしています。しかし、それ以前にも自然破壊は行われており、自然と共生した暮らしを営んできたといわれる日本人も例外ではありません。
例えば飛鳥時代や奈良時代、平安時代にかけては、度重なる都の造営や多くの寺社仏閣の建築に使用する木材を調達するため、近畿地方を中心に多くの森林が伐採されました。
江戸時代になるとこうした伐採もピークを迎え、その反動として、天然に生えている樹木を伐るだけでなく植えて育てる育成林業や、森林伐採に伴う土砂災害や水害を抑制するためのルールづくりが広まっていきました。
一方で、年貢を納めるために新田開発が進められ、多くの森林が切り拓かれるとともに、農地の肥料確保のための草山や、薪炭林も広まっていきました(いわゆる里山)。その影響で、明治時代には木の生えていない“はげ山”も広く見られるようになりました。
しかし戦後になると、石油が燃料の主役となって薪炭林が不要となり、化学肥料の普及によって草山も消えていきました。これらの土地は数十年かけて“森に帰って”いき、現在の“緑豊かな”日本列島が形成されたのです。